この10年で発達障害というワードが市民権を得ました。
診断された当事者ならびにその家族を取り巻く
療育・教育・医療・行政機関の支援の広がりは隔世の感があります。
一昔前は、診断名もなく、ただ変わった人として片付けられるばかりか、
とかく「どうしてこんなこともできないのか」と、当事者の問題とし処理されてきました。
その結果として、パーソナリテイーに対する二次的な障害を生起させていたのも事実でしょうし、
さらには、彼彼女たちのその抜きん出た能力や感性を社会に
十分に生かしきれていなかったという事実は誠に残念でなりません。
しかし今、発達障害に対する社会の受け入れ方は変容をとげ、
発達障害の内実を知る人や支援する人材が増えています。
コミュニケーション方法を工夫することや、サバン症候群的なスキルを認めて伸ばすこと、
あるいは必要ならば薬物による支援といったように、
広範な社会資源が整備されてつつあるのはその証左でしょう。
さらに今後は、これらの人材や支援システムを、
どう当事者のライフスタイルという生き方に合致させていくか
という課題の解決が求められてくるでしょう。
例えば、今の教育制度の中では、あまりにクラスの人数が多すぎます。
これでは、ルールや仲間の大切さを丁寧に獲得していくことは難しいと言うほかありません。
また、就職する機会に必ず立ちはだかる面接と言えば口頭によるものが中心ですが、
視覚障害者に点字があるように発達障害のある方には他のツールも必要でしょう。
このようにまだまだ人生の節目で当たり前に生きることが阻害される状況があったりします。
発達障害をとりまく社会資源が整備されることが、
同時にすべての人のプラスになるよう考えることで、
生き方をめぐる課題もそう難しいことではないでしょう。