「心に刻まれた記憶」

私は幼い頃からどこか変な子でした。

 

三歳の七五三の時に着物を着たまま着物の裾をあげて上手に階段を下ったと思えば、

何も思わず見知らぬ人からアメをもらい母にひどく怒られた事、

妙な所で知りたがりな所など思い起こせば

「話をちゃんと聞いてないし、じっとしていられない」

そんな特徴を持っていましたが、未就学時は特に大きな問題を起こした記憶はなく

「まあこんな子もいるでしょう」程度で片付けられてきました。

 

しかし小学校に上がった途端に問題は発生します。

寒い日に教室のストーブの前から動かない、

授業中に気になる本を読み続け授業を聞かない、

興味を持つ物を見つけると大声を上げたり急に飛び出してしまう。

 

服のセンスについて上級生にからかわれた時は頭に血が上り

理科準備室のビーカーを辺り一面に投げ飛ばし、

屋上から飛び降りてやる!と泣き叫んだ事もありました。

言われたら言い返し、更にはやり返そうとする。それはもう手のつけられない子でした。

 

ですが母はそれを良しとせず一つ一つ丁寧に学校や先生方に苦言を呈し私を守ってくれました。

そんな様々な事案から不安に思った母は方々手を尽くして

最終的に県立の大学病院に行きCTスキャン・睡眠時の脳波診断等の数々の検査結果、

私は「ADHD」という病気だと診断されました。

 

それから私と母の病院通いの日が始まりました。

毎週一回最終授業の時間に学校を抜けだし数十キロ離れた病院まで向かいます。

予約した時間に私はボランティアの方と遊び、母はその間に主治医の先生とお話をされたり、

傾聴ボランティアの方とお話をしていたようです。

 

正直こうして私は今も生きていられるのは早期に病気が発覚した事、

投薬治療等対応法を知った事

(ですが私は計画的の物事を行う事が苦手なので定期的な薬の摂取は行えず、

あまり意味がなかったようにも感じます)、

そして母の深い愛があったからだと感じています。

 

そんな日々が続くと、もともと行動の異常ではやし立てられていた私は

もっと他の生徒の目に着くようになりました。

元より軽度の言語未発達があり放課後に作業療法をしていたのを見られていたのかもしれませんが、

ある日数人の男子に囲まれ「差別用語」を言われました。

 

今でも覚えています、その言葉を。

そしてその意味が、彼らが言いたかったであろう言葉の意味を。

 

私は憤慨し学校を飛び出し近所のデパートの遊具コーナーにうずくまり泣きじゃくりました。

今思うと不思議ですが誰も声をかけては来ませんでした。

泣いて泣いて泣きじゃくった後に可愛い赤ちゃんとお母さんが目に入りました。

幸せそうに笑ってるお母さんとキラキラした瞳でこっちを見てくる赤ちゃん。

「ああ、私もあの頃に戻れたらいいのに」

 

私はADHDのせいか物事を深く考えない性分であり、なおかつ物忘れが激しい方です。

それでも、そんな私でも初めて感じた自己の否定。

この日からこの先長く続くADHD、

そしてうつ病との出会いだったように今では思っています。


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